pagebanner

戊辰戦争と片品村
門人たちと技術の伝承

戊辰戦争とは

慶応四年(明治元年)〜明治二年(1868年1869年) 薩摩藩長州藩を中核として明治政府を樹立した新政府軍に対し、それを是としない旧幕府側勢力および奥羽越列藩同盟諸藩が各所で戦った内戦。鳥羽・伏見の戦い(慶応四年年一月)から箱館戦争の終結(明治二年年五月)までの一連の戦いを指す。「戊辰」の名称は慶応四年の干支が戊辰であることに由来する。

-------------------------------

■関連事項:《雲井龍雄と三烈士の墓

戊辰戦争と片品村」(公民館事業・片品村の歴史探訪シリーズ第2回講演テキストPPT)

 

最終更新:2016.10.26.

 

片品村が戊辰戦争に巻き込まれたのは、なぜか。

aizukaido片品村は縄文土器や各種の石器が発掘されるなど、古い歴史を持っていますが、面積の90パーセント以上が山間地であり、ひっそりとした山村として、日本史の表舞台に登場したことはありません。地理的には尾瀬をはさんで越後(新潟県)と会津(福島県)に接し、特に会津とは従来から酒や米、生活物資の流通などで盛んな交流がありました。その道が会津街道(沼田側からは沼田街道と称す)です。この位置から、戊辰戦争が東北地方に及んだ時、図らずも官軍(東征軍)と奥羽越列藩同盟軍の接触による戦闘に巻き込まれることになりました。

会津側が攻撃を仕掛けたとされる戸倉戦争、河井継之助を擁する奥羽越列藩同盟の密命を帯びた米沢藩士・雲井龍雄ら八名が来村したことに起因する暗殺事件(須賀川事件)など一連の出来事が村内や近隣の古文書に記録されています。下に概念図を示しますが、当時戸倉には関所があり、双方にとってまさに要衝の地であったわけです。住民には不幸なことですが、この村で衝突が起こるのは必然だったといえます。

boshin-map
Copyright by 永井佐紺; Wikipedia

戊辰戦争がもたらした「明」と「暗」

戸倉戦争では、部落の住宅三十一戸が焼かれ、吉井藩の伊東長三郎ら官軍側の兵士二名が戦死しています。また須賀川事件では雲井龍雄に同行した武士と僧三名が官軍側の陰謀によって暗殺され、それにかかわったと嫌疑をかけられた村民二名が犠牲になりました。土出の大円寺(ここに官軍の本陣が置かれた)や須賀川にはこれらの事件に関する史跡が残っています。大きな日本史の流れの中では小さなことながら、片品村もこの一瞬だけは時代の転換点とは無縁でありませんでした。

daienjiitochozaburo
大円寺(左)、境内にある伊東長三郎の墓

こうした「暗」の部分にほぼ並行して、「明」ともいえる出来事もありました。永井紺周郎と妻いとによる新しい養蚕方法、後に「いぶし飼い」と呼ばれることになる画期的な技術です。これは、官軍側についた沼田藩の兵士25名が会津街道のもう一つのルート、川場村から背峰峠を越える山道を行軍中、針山新田で大雨に見舞われて永井家に逗留し、衣類や武器を乾かすために室内でところ構わず焚火をしたことに起因します。繁忙期の農家にとって大変迷惑なこと、むしろ災難といっていい事態ですが、これが「いぶし飼い」の発見につながるのです。

《「いぶし飼い」が生まれたきっかけ
■《須賀川事件・雲井龍雄と三烈士の墓

 

line

片品村絹遺産の会
〒378-0415 群馬県利根郡片品村鎌田3946 中央公民館2階 片品村教育委員会
Tel: 0278-58-2114 Fax: 0278-58-4611 E-mail: ryoksmt@mail.wind.ne.jp
Copyright by Katashina Kinuisan-no-Kai 2015. All rights reserved.
書面による承諾なしに内容の一部または全部を引用することを禁じます。