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戊辰戦争と片品村
門人たちと技術の伝承

戊辰戦争とは

慶応四年(明治元年)〜明治二年(1868年1869年) 薩摩藩長州藩を中核として明治政府を樹立した新政府軍に対し、それを是としない旧幕府側勢力および奥羽越列藩同盟諸藩が各所で戦った内戦。鳥羽・伏見の戦い(慶応四年年一月)から箱館戦争の終結(明治二年年五月)までの一連の戦いを指す。「戊辰」の名称は慶応四年の干支が戊辰であることに由来する。


最終更新:2015.4.3.

 
 雲井龍雄と三烈士の墓 2

村の歴史になるまで

村人からみて官軍はどういうものだったのか、また雲井らはどうか。それはこの事件が村人にとってどういう出来事だったのか、考えるために重要なはずです。

sannreshi-hi『片品村史』を見ると、官軍は片品村を会津側に対する要衝とみて各所に防塁を築くため、部落ごとに割り当てを決めて村人や食料等の物資、さらに家屋をどしどし徴発していた様子が記述されています。また、片品村の古文書研究会によれば、沼田の古文書にはさらに具体的に詳しく、わらじの供出二百足、とか、人足三十人二日といった様々な要求があったことが記録として残されています。農繁期のこの時期(7〜8月)にそんなことをされては農家の生活はたまったものではありません。官軍と言っても、徴募されて来たにわか仕立ての兵士のこと、規律が行き渡っていたとはいえないでしょう。しかし、逆らうこともままならず、村人は反感を募らせていたに違いありません。

一方、雲井龍雄らはどうでしょうか。侍と僧侶です。人品骨柄卑しからぬ人たちと見えたのではないでしょうか。居丈高に次々要求してくるだけの官軍と違い、村人との間に会話もあったでしょう。それが大勢に囲まれだまし討ちにされてしまう。その顛末を見れば、気持ちがどちらに傾くか、普通の人々の感情として明らかなことです。「三烈士」という言葉が浮かんでくるのは自然なことと思われます。

事情を明確にするもう一つの史跡があります。「三烈士之碑」という石碑です。高さ約4.5メートル、幅約1.2メートル、三烈士の墓の横5メートルほどのところに立っています。裏側に発起人や賛助者の氏名があり、表にはまさにこれまで述べてきた事件の顛末が堂々たる漢文体で刻まれています。抜粋すると、

正二位勲一等公爵徳川家達題額
明治戊辰ノ変旧幕臣羽倉鋼三郎、前橋藩士屋代由平、日光山僧侶桜正坊隆邦、米沢藩士雲井龍雄、会津藩士原直鐵等… 八月十八日官軍ノ襲フ所トナリ憤然応戦セシモ衆寡敵セズ… 終ニ壮烈ノ最後をヲ遂ケラレタリ…
昭和九年九月
陸軍一等主計従六位 羽倉敬尚撰並書
建碑首唱者代表 片品村郵便局長従七位勲六等功七級 大竹梅吉

碑の裏側に刻まれた発起人の名は、大竹梅吉ほか村人十六名、賛助者の中には会津出身の陸軍大将柴五郎はじめ入沢達吉、荒木正恭等二十数名、特別賛助に公爵徳川家達、公爵徳川慶光、伯爵松平直富等々の名が刻まれています。

「三烈士」という呼称がここで決定的に定着したものと推察されます。事件から六十六年後です。村人がこの墓(三人)に寄せるのは、同情とある種の敬意であると解釈しても、決して外れてはいないでしょう。

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碑文の一部 右下に雲井龍雄らの名前が刻まれている
この碑文全文の書き起こしと現代文訳はこちらのpdfファイル(p.23-29)を参照

なお、蛇足ながら付け加えておきますと、日中戦争から太平洋戦争にかけて村民が出征するときには必ずこの石碑の前で出征式を行ったということです。

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■さらに詳しくは:《「会津戦争記憶記」星野なか》(pdfファイル)


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