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戊辰戦争と片品村
門人たちと技術の伝承

戊辰戦争とは

慶応四年(明治元年)〜明治二年(1868年1869年) 薩摩藩長州藩を中核として明治政府を樹立した新政府軍に対し、それを是としない旧幕府側勢力および奥羽越列藩同盟諸藩が各所で戦った内戦。鳥羽・伏見の戦い(慶応四年年一月)から箱館戦争の終結(明治二年年五月)までの一連の戦いを指す。「戊辰」の名称は慶応四年の干支が戊辰であることに由来する。


最終更新:2015.4.3.

 
 雲井龍雄と三烈士の墓 1

沼田から尾瀬・日光方面へ向かう国道120号線の傍ら、片品村須賀川の民家の背後にひっそりと三基の墓石が立っています。「三烈士の墓」と言い伝えられているものです。地元の旧家星野家の健一さんに案内を乞い、言い伝えられていることを伺いました。そのうえで各種の資料にあたり、関連史跡を踏査して、史実として信頼できることをまとめました。

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三烈士とは何者か

そして、その墓が片品村にある理由は何か。それを語るにはまず雲井龍雄のことから始めなければなりません。藤沢周平ファンの方はご存知でしょう、「雲奔る」という中編があります(全集の第七巻に収録)。その主人公が米沢藩士・雲井龍雄です。時は幕末の争乱期。彼は藩の探索方として京都や江戸で時代の趨勢を探っていましたが、戊辰戦争の勃発に伴い帰藩して、奥羽越列藩同盟のなかで河井継之助や佐川官兵衛*のもと、諜報・工作活動の役割を担うことになりました。この時二十五歳でした。

河井継之助は司馬遼太郎『峠』の主人公、その策略で官軍(東征軍)を大いに苦しめます。佐川官兵衛は会津藩軍事奉行頭取、武闘派の藩士としてNHKの大河ドラマ「八重の桜」にしばしば登場しています。

片品村に関わることに限って述べますと、彼は同志たちと会津から沼田街道をたどり、戸倉の関所を越えて八月十四日に上州沼田藩領須賀川村(現在の片品村須賀川)に到着ました。ここで前橋藩、沼田藩を同盟側に引き入れようと、沼田藩を通じて工作しようとしていました。彼ら八人が宿としたのは農家星野福三の家です。戸倉の関所は通ったものの、歓迎されざる人物として官軍側の警戒は厳しく、周りは護衛と称する前橋藩兵に常時監視されていてました。

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数日して鎮撫軍(官軍)の軍監、姉川栄蔵から会ってもよいと呼び出しの使者が来ます。雲井龍雄は同志を二班に分け、彼は小松茂(会津藩士=別名原直鉄)ら五名で指定の出迎え場所、追貝(おっかい)へ向かいます。これが実は官軍の陰謀でした。二つに分けて別々に襲撃しようという計画でした。雲井龍雄は途中で随行する武士たちの様子がおかしいのに気づき、戻ろうとするのですが、突然銃撃されてしまいます。彼自身は尾瀬、桧枝岐(ひのえまた)へと村人の助けをかりて何とか逃げおおせます。一方、須賀川に残った三人の同志はどうなったのでしょうか。この時同じ頃、羽倉鋼三郎、桜正坊隆邦、屋代由平の三人はこの地で官軍側に取り囲まれ、斬り殺されます。このくだりを「雲奔る」から引用すると、

羽倉は、今度の両毛作戦を、終始力づけてきた盟友である。屋代は中川と同じ前橋藩の脱藩者で、尊攘のために京都で奔走したが、志を得ないで会津まで流れてきて龍雄に同行した。屋代は故郷を望みみる場所まで帰って殺されたのであった。

桜正坊は日光で輪王寺宮を護衛していた僧侶です。三人の首級はすぐさま追貝に送られて首実検されたのち、須賀川へ戻されて七日間梟首されました。その時の立札文言の写しが地元に残されおり、『片品村史』に収録されています。読んでみると「…恐嚇扇動頻りに官軍を罵り…逆賊不容誅依之梟首申付者也」などと、憎悪むき出しの言葉が連ねられています。

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官軍の本陣がおかれた追貝の海蔵寺(左) 
首実検が行われたという星野家の床の間(右)

村人と事件とのかかわり

その後三人の首級と遺骸は村人の手によってとりあえず現場近くの墓地に葬られます。しかしそれは仮のものとしてで、きちんとした墓石が立てられるのはもっと後、さらに彼らの賊名がそそがれるのは明治ニ十二年になってから、憲法発布に際してのことでした。そしてようやく「三烈士」の墓と、憚りなく言えるようになったのです。

地元の古老たちに話を聞くと、雲井龍雄については畏敬の念、三人については同情のまなざしが常に表情にうかびます。この人たちは、この出来事の直接の目撃者や関与者ではありません。何しろ今から150年ほども前のことであり、明らかに祖先からの聞き伝えです。にもかかわらず、語るに際して生き生きとした感情が湧いてくるふうなのですが、それはなぜでしょうか。そもそも「三烈士」と、感情が高揚する言葉を用いるのはなぜでしょう。

さて一方、雲井龍雄とは別途に逃げた武士たちはどうなったのでしょうか。このうち小松茂については言い伝えが残っています。彼は追貝から須賀川方面へ戻ろうとして片品川周辺をさまよい、炭焼き小屋などに身を隠しながら、夜、明かりの洩れる農家を見つけて一夜の宿を求めました。その農家は、実は私(笠松亮)のところから三軒先、下摺渕(したするぶち)の吉沢という家です。この顛末を私は子孫の武一さんと、その弟の貞夫さんから直接聞きました。この出来事は不幸な結果をもたらすのですが、まずことの進行を述べますと…

いきなり武士に飛び込まれて困惑した吉沢和助さんは、はじめこっそり官軍に通報しようとしました。だが妻と娘が気の毒がって止めたので思い直して二晩かくまい、三日目の夜更けに人目につかぬよう下男に案内させて山伝いに逃がしたといいます。これで一安心、うまく収まったと思っていたところが、明治になってからこのことが発覚し、和助さんは拘束されて東京へ連れていかれます。伝馬町の牢獄で正式な取り調べもないままほどなく病死。そして骨となって帰ってきたのです。

もう一人、この事件にかかわって不幸な最期を遂げた村民がいます。須賀川の星野寅吉さんと言う人で、当時雲井龍雄らをかばったという罪名でとらえられ、明治3年11月8日、千住の小塚原刑場で斬罪に処せられました。 明治という新政体になってからもなお、あるいは、新体制だからこそ、過去をすっかり清算してしまわないうちは安心できなかったのでしょうか。

つづく 


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