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いぶし飼いとは
門人たちと技術の伝承

明治初期の養蚕方法と「いぶし飼い」

代表的なもものとして、
 ・田島弥平、邦寧らの「清涼育」
 ・永井紺周郎の「いぶし飼い」
 ・高山長五郎、高山社の「清温育」
 ・奥州で盛んであった「温暖育」
があげられる。
「いぶし飼い」は「清温育」に近いが、方法としての確立はそれよりも早い(明治2年)。

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最初は主として山間部や利根川流域の冷涼な地域から、その後前橋などの平野部にも順次、波紋のように広がっていった。


最終更新:2015.3.23.

 

「いぶし飼い」が生まれたきっかけ

後に「永井流いぶし飼い」と呼ばれるようになり、片品村から群馬県内各地に、さらに近隣の農家にまで広く普及した養蚕方法は、偶然の出来事から生まれました。《戊辰戦争と片品村》の項で述べた、沼田藩兵士の焚火です。幕末のこの時代、囲炉裏に薪をくべて暖を取るのは農民の生活としては普通ことですが、それほど大きくもない家に突然大勢の兵士が押しかけ、家じゅうあちこちで焚火をする、というのはまったく考えられないことでした。しかも「お蚕さま」にとっては一番大事な時、囲炉裏を使ってはいけない時でしたが、一介の農民としてそれに逆らうことは到底できず、災難として受け入れざるを得ません。しかし、永井紺周郎と妻いとは、この事態に対応しながら、あるヒントを得たのです。この時の様子を再現ドラマ風にお話しましょう。

雨の日の災難

戊辰戦争さなかの慶応四年(1868年)七月の中旬、利根郡片品村針山新田。その日も朝から雨であった。標高900メートルを超えるこの地では雨の日は肌寒い。紺周郎は二階の蚕室に上がり、蚕の様子を見て回りながら気が気ではなかった。もう三日も続いた雨で、四齢の蚕はすっかり元気をなくしていた。普通なら夜も眠れぬほど大きな音で桑の葉をむさぼり喰う蚕たちが、しんなりと白い胴体を横たえている。こしゃり=i蚕の病気の一種)にかかる心配もある。全滅するかもしれない。その時、外で人が歩く音が聞こえたと思うと、がらりと乱暴に入口の引き戸が開けられた。

omoya「おやじ、宿をたのむぞ」と、先頭の一人が言う。下りてきた紺周郎と妻のいとがあっけにとられて立ちすくんでいるのに目もくれず、ずぶぬれの男たちが続いてどやどやと入ってきた。「火をもそう、体が冷えてたまらん」。中の一人が言うと、土間にもいっぱいに並べてあった蚕の籠を脇へ蹴飛ばし、薪を集めて火をおこしはじめた。沼田から背峰峠を越え、戸倉へ向かう途中の官軍兵士たちらしいとわかったが、うっかり逆らったりすれば斬られるかもしれない。なすがままにしておくしかなかった。

たちまち家の中は煙でいっぱいになり、紺周郎の心配は倍加した。この当時、蚕は煙を嫌うと言われ、種蚕を育てて繭をとるまでの期間養蚕農家はどこでも皆いちいち外で火を焚いて食事の用意をするほど「お蚕さま」に気を配ったのである。それが言い伝えられてきたならいである。収入の大部分を蚕に頼っていた農家にすれば、蚕がうまくいかなければ生活が立ち行かなくなる。その上常に病気の危険がある。どうなるかわからない。「今年は駄目だ」。紺周郎は絶望的な気分になった。

25人ほどの兵士たちの一隊は翌日の午後遅くやっと去っていった。紺周郎といとは何とか気持ちを立て直そうと、土間に散乱した蚕を片付け、二階に上がった。見ると、蚕の様子が恐れていた予想と違うようだ。気のせいだろうか…。いや、どの蚕も元気に桑の葉を食べている。わけがわからないまま、二人はざわざわとも、ばりばりとも聞こえる蚕たちの音に耳を傾けていた。

ひょっとして…

あれほど煙にあててはいけないと言われていた蚕が、二日の間絶えず煙を浴びていながら、かえって元気になったのである。なぜか。目の前で起こっていることを毎日見ながら、紺周郎は容易に納得できない。やがて最後の脱皮をして五齢となった蚕は蔟(まぶし)に上って繭を作り始め、前年以上の良い収穫をもたらすことになった。紺周郎は考えた。何が違っているのか。火を焚いたために室温が上がり、煙が充満していたこと。これまで言われていたことと全く逆だ。この一日ほどの間に起こったことの他には何も変えていない。

畑は天候が悪ければ不作になる。お蚕さまも雨や寒さで外れる(不作の)こともある。しかし今までは大きく外すことなくやってきた。焚火と煙でもうだめかと思ったのに、かえって収量が良くなったとは、それがお蚕さまには良いことなのだろうか。ひょっとして誰も知らなかった秘密があるのかもしれない。次の年、紺周郎はいとと相談して、ある試みをした。

焚火、湿度、煙

蚕が四齢になったとき、雨で気温が低く、肌寒い日には蚕室でも火を焚き、煙を充満させ、定期的に換気して、上簇(じょうぞく)まで注意深く室温を一定に保った。この「一定」とは、温度計のなかった当時、何を基準にしたか、という疑問が生ずるはずだが、紺周郎の場合、後に養蚕農家に指導して歩いた時、「片肌脱いで暑からず寒からず」という、誰にでも分かり、実行できる言葉にして表現した。

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(左)五齢に達した蚕は体長7〜8センチになる(日本絹の里)
(右)わら蔟(まぶし)(千明富江さん提供)

さて、「再現実験」あるいは「実証試験」とでもいうべき試みは成功した。前年にまさる豊作だった。もし外れた場合、養蚕農家として大きな損失を被るはずだったが、逆に大きな収穫を二人にもたらしたのである。何が何だかわからないけれど、うまくいったのだ。

集落というのは、他人の生活が気になるものである。収量が良くなかった近在の農家は頻繁に様子を窺いに来る。尋ねられた時、紺周郎は体験でわかったことを隠さずにそのまま伝えた。むしろ、留意点とともに具体的に指導したと言えるようだ。理にかなった方法、と紺周郎自身は思っていたが、従来のやり方をただ踏襲してきた普通の農民には容易に信じられないことだった。だが、結果、目の前にある現実は何よりも強い。半信半疑のままの農家が次々訪れてきても、そのたびに紺周郎は体験を伝えた。

…と、こんなぐあいにその時の様子はイメージできるでしょう。

「いぶし飼い」への方法化

紺周郎自身はこの時点でまだはっきり自覚していなかったと思われますが、今日の視点からみれば、この実験が証明したのは、

  1. 人間に快適な温度は大体において蚕にも最適な生育環境であること
  2. ある程度温度が上がると湿度が下がり、こしゃりなどの病気の予防になること
  3. 煙に含まれているホルムアルデヒドという成分には消毒効果があること(もちろんこの成分はこの時点では知られていない)

ということです。その体験的成果はやがて数十年にわたって多くの養蚕農家に還元されていくことになります。それは《永井紺周郎と妻いと》《門人たちと技術の伝承》の項で詳しくご紹介します。

沼田藩の兵士が家中で焚火をしたこと、蚕が元気を回復したのは偶然ですが、その過程と結果を注意深く観察し、同じようにやってみてもう一度よい収量を得たい、と二人は考えたとは思われます。生活上の切実な問題ですから。しかし、それを方法化する(と現在の言葉ではそう言えますが)とまでは、おそらく考えなかったでしょう。そこへ発展していく動機となるのは、集落に暮らす人々との間に生ずる相互作用というようなものかもしれません。

相互作用、つまり、紺周郎は噂を聞いた近在の農家から請われて自分の体験や観察で分かったこと、考えたことを教えて歩くようになった、ということです。人を納得させるには、自分の考えを明確に、筋道のたったものしなければなりません。今の言葉でいえば、自分だけが分かっていればよい「暗黙知」から、他者と共有するための「表出知」へと、転換あるいは発展させていく必要が生じたわけです。ここで「いぶし飼い」の原型が確立したのです。そしてそれは各地の農家における養蚕の課題を取り入れながら改良され、ついに普遍性を持つに至るのです。

 

上簇(じょうぞく):五齢に達してズウとなった蚕を、繭をつくらせるため蔟に入れること

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